2008年12月25日木曜日

創作ー散歩 (1)

 僕は散歩にいく。
 旅行はあまり行けないから、近所、もしくは東京近郊の街々を時間を見つけては、仕事終わりに、休日の早朝、昼下がり、夕方に、平日の突然の真夜中に、コンサートの帰り道に、喫茶店の帰り道に、散歩する。

 そう思っていた。
 そんなのは理由をつける必要があっただけで、僕はつまり、旅をしている感覚を楽しんでいるということだ。
 僕の旅行には、地球の裏側のブラジル、サンパウロにカルナバルを見に行ったり、最果てのグリーンランドに白夜光を浴びてみたり、サンテグジュペリの本に出てきたバオバブの木をマダガスカルに確かめにいくという、理由を持つ必要はなかっただけのことだ。

 僕には彼の地へ旅に出る理屈は何一つない。

 何かの帰り道に散歩することが、僕に多いのは、目的地が揺らがない安心感があるのだと思う。
 それが、どこからであれ、終着点はいつも我が家なのだから。
 帰り道は、夜の時間帯が多くなるのは当然のことで、その安心感は心強いものだ。僕は普通に、なに不自由なく育ってきた中流家庭の出身者で、そもそも東京に具体的な目標もなくでてきてこの地に住みついている( --- 曖昧で抽象的な理由は持ち合わせていた。つまり、流動的で感傷的な刹那的感覚を抱いて上京はしているのだが。)

 この土地の夜は常に僕の不安と帰巣本能をかき立てディアスポラをもとめる精神へといざなうので、目的地が少なくとも我が家であることは救いを僕にもたらしてくれるのである( --- これは平均率以降の音楽におけるドミナントモーションという論理の一種であると思う。)寓話の多くは夜に魔が復活する。太陽が沈み、月が昇る。ライオンは石にかわり、異形のカーニバルが催される。


僕は、観光客の気分になるのが苦手なのだろうとも思う。
僕の観光客としてのキャリアをざっと思いだしてみる。




.......ここに二週間の時間がたつ。


おとといの夜、ポストを久しぶりに開いた。
たくさんのカラフルなチラシがいつもどおり溢れ出す。
そして、いつもの通りの請求書の山に、不在者伝票が挟まれていた。

最近は帰りがおそくなるので、再配達をお願いできる時間帯には帰れそうにない。特に今週は絶対だ。郵便物を管理している地区のその主要な郵便局に直接、印鑑をもっていくことにした。24時間受け付けているのでこれならば局員が配達にもちだしていなければ間違いなく受け取れるのだ。ちなみに、電話を一本入れればその「行っても無かった」という事態もさけることができるが、どうせ深夜に出向くだろうから持ち出していることも無いだろうし、なんとなく電話をすることも億劫になってしまったのでそうすることはしなかった。

いつもとは違う帰路につく。

普段乗らない地下鉄を二本乗り継ぎ目的地へついた。最寄りの三丁目駅につくまで会社からずっと地上にでることはなかったので、大粒をした雨空であることに気がつかなかった。あれだけ地面がぬれてアスファルトの水たまりもあふれそうになっていたのだからかなり前から降っていたのだろうと思う。
しょうがない気持ちでビニール傘を購入し郵便局へと向かう。駅に向かう一団に逆行して僕は大通りをすすむ。

仕事でなくても僕は日中、夜間、留守にしていることがおおいし、そのうえ救いようのないタイミングの悪さで郵便物をうけとれないことがほとんどなので、実は今回のようなケ-スはよくあることなのだ。
そしていつものようにスムーズにその海外からの郵便物を受け取ることができた。
身分証と印鑑をつかって。

確かに頻繁にこの郵便局へいくものの、雨降りのこの時間帯にくることは無かったので、その街の風景はいつもと違って見える。

絶景かな。

絶景とはどういう意味だろう?

絶対の景色
絶海の風景
断絶の光景

。。。どう解釈しても、それらしい雰囲気と納得がいく。

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